昭和四十八年十一月二十六日 朝の御理解
御理解第二十九節 「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しているから、永う散らぬ。」
梅の花の信心をするにはどうでも元気な心がいるわけです。それに元気な心で信心をしておりませんと、ここぞと思うところの辛抱が出来ません。
いうなら、おかげを頂くだけの信心が桜の花の信心であるなら、梅の花の信心とはお徳を受ける信心だというふうに思いますね。
桜の花はどんなに華やかに咲いてもすぐ散ってしまう。梅の花は永う散らんだけでなくて、梅干し、梅の実というのが実って、いわゆる梅干しという何時までおいても悪くならないというか、いうなら、そういう梅干し的・・・特に・・・・
まあ、そんなふうに、ここは頂いたらよいですね。どんなによい信心が出来とるようであっても、それが只、おかげに終始した信心であるすると、それは桜の花の信心それはいけないのではない。けども、そういうところから一つ本気で、お徳を受けて行く信心に気づかせてもらわねばいけん。
※ ※ ※ ※ ※ 昨日、文男先生が難しい事を言ってましたけど、昨日は二十五日の研修会でしたから、神観と言う事を言ってましたね。神を観ると、その金光教の信者が、自分達が頂いておる神様をどういうふうに見ておるかと。
只、お願いをして、おかげを下さるという神様を頂いている人、お徳を下さろうとする、いわゆる氏子信心しておかげを受けてくれというのは、いわゆる尽きぬおかげの事ですから、尽きぬおかげ、人間の本当の幸という事であって、人間の本当の幸せは、尽きぬおかげに触れなければならぬ。
尽きぬおかげとは、お徳を受けて、受けるおかげだという意味の事をまあ言ったと思います。それには、様々な問題に直面する時に、只そこを辛抱して受け抜いたという信心では、残るものはおかげだけだとこういうのです。
だからその問題を即、神愛だと。もうそこには一歩の後退もない。もう問題を即、有難い、有難いというよりも、なんでもない心で受けられるという事。それが徳になるのだという意味の事を言っているのですね。
例えば、わかりやすく言うと、あの人の場合なんかは、もう腹は立てませんという神様に御誓いをしておると。それが段々、稽古が出来てきたら、普通でいうなら本当に、本当にあげんこと言われて腹が立たんですかと、周囲から言われるような事であっても、全然心にひっかからない。
あの人にあんな事いわれた、この事は忘れられんというて辛抱しながら神様にお縋りして、段々それをありがいものにして行くというのではおかげだけ、おかげの世界だけでしかない。けどもそこんところを、こちらに全然感じない、即それを有難く受けるという、受け方、それにはやはり自分自身を見極めると同時に、そういう生き方でこそ徳を受けるのだという意味の事を言ってましたが、まあそうですね。
桜の花の信心ではいうなら、おかげだけ、梅の花の信心させてもらえばお徳が残る それを具体的にいうとです、自分の顔が立つとか、楽になるとか、おかげになると言ったような事が目的ではないですから、徳を受けるという事が目的ですから、もうそれこそ、それがよくわかっておる。
この神様はそういう神様であり、この神様はこういう頂き方をすれば力を下さる、お徳を下さるという事を言っておるわけですね。
※ ※ ※ ※ ※ 御神戒の中に、わが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬこと、と言ったような、これは御神戒です。
わが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬこと。例えばこれは、自分が苦労をしておると、人の苦労がよくわかる。そのわかっただけではいけん。その苦労をしておる人を、助ける事の出来るだけの力を頂かなければいけん。
人の身の苦労を知っただけではいけん。自分の身の苦難がわかったら人の身の苦難をです、導き助けられるだけのおかげを頂かなけりゃいけん。
昨日は延岡教会で長く信心の稽古をしておる人が、福岡の娘さんところに見えて合楽の事を聞いてその娘さんと二人で、昨日お参りさせて、昨日研修会に参加しておられました。もうおばあちゃんです。ずっと永年信心しとられますから、言うこと思うておる事がすっきりしている。自分が七十一とかなられます。
先日あるところに、八十あまりのおばあさん、八十幾つかのおばあさんに会うて話をしておりました。もう八十幾つにもなってから、市場に買い物に来ておられた。
もう使わにゃ損のごと思うて、息子やら娘達が使う、本当に早う死んだ方がましというて嘆かれた。それを聞いてそのおばあさんが言っておられる事です。
私もまだ八十にならん、七十一にしかならんけれども、もう歳をとらせて頂いてもいろいろと御用が出来る事が私は有難いと思うておる。
有難いと思うておるから、御用がひとつも体にこたえず、ひとつも疲れてない。私は金光様の御信心を永年さしてもろうておるが、天地金乃神様、生神金光大神様にお縋りして、御用を有難くさして頂いとるから疲れません。
おばあちゃん一生を本当に過ごさして貰うならです、やっぱり有難く御用を頂かしてもらい、有難く日々を過ごさしてもらわなければつまりせんよと言うてお話をしましたという話をしておられました。
そういう事は教えられて、例えば出来る事じゃない。もう本当に金光様の御信心がわからせて頂いて、御用というものの内容がわかってくるとです、段々御用さして頂く、もう七十一にもなって、御用が出来ておる事が有難い。
そういう健康を頂いている事が有難いという話をしておられましたが、信心の苦労というか、いうなら梅の花の苦労がしっかりやっぱり出来ておんなさる。
それだけの中からそういうものを感じました。でなかったら、そういうふうに人の難儀を助ける働きというようなものが出来んです。
只、自分だけがおかげを頂いておる、桜の花的信心では。お互いの信心を思うてみてです、人の難儀を見て、それを気の毒だと思うただけじゃつまらん。それを言葉にでも表して、助ける一つのてがかりとかきっかけをつくらせて頂けるくらいな、おかげを頂く為には、元気な心で信心して、梅の花的な信心になっておらないとおかげにならん。 ※ ※ ※ ※ ※ 昨日は野口さんの百日祭であった。同時に昨日は日曜日で特別奉修員の方達の御祈念会がございます。
いつもここでずっと御広前の隅から隅までならんで御祈念を受けられる。御祈念をなさるわけです。けど、いつも久留米の佐田さんは向こうの隅にいつも座られる。
けど何かあの自分の横が一寸空いとったから、そちらの方へこう除けた。そしたらその野口さんがその生前の姿そのままに、はっと座って御祈念されるところを頂く。 本当になんというですかね、もう亡くなられてからでも、そういう根性でおられるということ。すぐその隅に。
昨日百日の霊祭にみんな参ってきとりました、皆娘達で、みんなで参ってきた。
それでその話を私、さして頂いたんです。お母さんの信心は大きかったねと。あなた達の信心は小さい。ひとつ親の願いというものがです、信心が育っていくこと。信心になっいく事を願って、あれほどおられたのだから、いっぺんに大きくなる事は出来けれども、段々お母さんの信心の継承、あとつぎが出来るためには、おかあさんが歩かれた信心を、ひとつ受け継いでいかねば、継承がなされなければならないというて話した事でした。
あなた達の場合は、只自分の事だけの信心だけども、お母さんの場合なんかは、その特別奉修員と言えば、合楽教会の事を願い又、親先生の健康を願うところから発足した方達の御祈念会である。いうなら、教会の事を願う、親先生の事を願うという事はやっぱり、ひとまわり信心が大きくなっておる。
そしたら久美子さんが他の姉達は五十日祭までに母のいろんな夢を見た、頂いたけれども、私は全然五十日祭までは頂かなかった。
熊本にいっとります。ところが五十日祭を頂いて帰ってから、毎日のように頂くから晩寝ませて頂くのが楽しいというくらいに頂くそうです。
それがどうかというとですね、いろんなものを持ってきてくれる。お米を持って来てくれる。最近、砂糖がないといえば、砂糖を持ってきてくれる。私がぼた餅が好きといえば、ぼた餅を持ってきてくれるというようにね。 で ですから晩、寝すませて頂くのが楽しいというてね、だから御霊様もそういう働きの出来るくらいのおかげを頂いておるという事は、生前、いうならどれだけ大きな信心をいうなら、梅の花的信心をさして頂いておったか、その徳を残しておったしるしだというて、昨日話した事でした。
桜の花の信心がいけないというのではない。それもやっぱりおかげを頂かりゃならんけども、それはおかげだけで散ってしまう。
それを例えば文男先生は、ひとつの難儀に直面すると、その難儀だけをどうぞどうぞと言うて願う、だから願うところから、おかげは受ける。けども、そういうおかげは、いうならば、散りやすい。それを桜の花の信心だと、今日私、聞いて頂いた。
又、文男さんが言っておるように、なら、お徳を受ける信心というのは、その難儀を難儀と感じていけん信心だとこう言うておる。
いや、むしろ、それを合掌して受ける信心だと言うておる。それに私はお徳が受けられる。それにはやはりしっかり梅の花的信心が身についておらねばです、そういう受け方は出来ません。
難儀を難儀と見る。そういうそれを神愛というてましたけど、難儀を難儀と見る、それは只、おかげの世界だとこういうのです。
けれども難儀、それは即、おかげ。それは神愛、それを難儀とせずに受けられる信心をお徳を受ける信心だと言っている。確かにそうです。
だからそれを、梅の花の信心、いや、梅の花の信心を目指しておらねば、そういう生き方は出来ません。寒いとか冷たいとかいうておったんでは、おかげにならん。
その寒いからこそ、冷たいからこそ、梅の花のあの何とも言えん薫りをあたりに漂わせるような、いわゆる雰囲気というか、おかげが生まれてくるのです。
ああいう難儀、苦労の中に、それを苦労とも感じん。只、有難い勿体ないでいうならば、進んでおる信心の人達の姿というのは、それなんです。それが開花の時期がこないはずがない。
梅の花が開かないはずがない。開く頃にはもう願わんでも頼まんでも、鶯が来てとまるようなおかげになるはずだ。しかもその後には、それが実りになる。それが梅干しともなる。いつまで置いても悪くならない。いうなら、お徳という事になる。
ですからそういう元気な心での、梅の花を目指しての信心をさせて頂いておるような信心からでないとです、いわゆる難儀は難儀として、只そこだけおかげ頂かんならんという事だけに止まってしまう。
成程、願う、一生懸命お参りをする。修行をするから、おかげは頂こうけれども、そこにあるのは、おかげの世界だけだという。
私共そういうおかげの世界から、もう一歩前進してお徳の世界に繋がるようなおかげを頂く為に、梅の花の信心をしっかり身につけておかねばいけんという事になりますね。
どうぞ。